お正月、いちご

かまぼこだてまきぶろっこりいちご

うちのおせち料理はちょっと変わっていると思う。
おせちの体裁をとってはいるものの、よく見ると全然関係ないものがまぎれこんでいる。 いちごとか茹でたブロッコリーとか。ブロッコリーにはレモンを搾って食べる。

幼かったころの一時期、わたしは父方の祖父母と住んでいたことがある。その家に父は帰らないのにだ。だけど彼らの存在のおかげで、わたしにとって父親という「どこかにいるけどここにはいない」人物が少しはリアリティのあるものになったようにも思う。
祖父母が父についてどういう見解だったのかはよくわからないけれど、おそらくわたしの母に対してはたくさんの感謝と負い目と、少しの憎しみを持っていたのだろうと今はぼんやり考える。祖父は耄碌こそしていなかったが、日常生活に簡単な介助が必要だった。 母はわたしを育てながら祖父の面倒をみて、空き時間(なんてものはなかったはずだが)には働きにも出ていた。結婚前の、盛大におおげさな言い方をすれば”美貌のキャリアウーマン”的な存在だった母を知る人はそのことを聞くとみな一様に驚き、そして離婚を勧めたという。しかし彼女は「ユリが一人前になるまでは」と——あるいは何か思うところがあったのかもしれないが——そうしなかった。少なくともその時点では。
それは祖父母にとってこのうえなくありがたいことであったろうし、同時に、母がありがたい嫁であればあるほど、自分たちの息子はろくでなしになってしまう、ということでもあっただろう。 わたしという孫に対しても、かわいいには違いないけれどもそれだけでは済まない、なにか複雑なものがあったと思う。子ども心にそのことはよく伝わってきたのだ。

父方はそれなりの家だったようで、盆と正月にはそこそこの人数が集まった。祖父からお言葉があり、年少のものから順にお屠蘇をいただく。色とりどりの豪華なおせち料理は、長男の嫁(長男の人はそこにいないのだけれど)である母がひとりで支度していた。簡略化はゆるされないことだったし、子どもだからといって別メニューにしたりお屠蘇を飲まないことも祖父は認めなかった。
普段からひどく威圧的なわけではなく、ただしきたりを重んじたかったのだと思う。家長として厳格に振る舞うことで、息子の不在を埋めようと、その不自然さを和らげようとしていたのかもしれない。
当時のわたしには面倒な食事制限があり、食べてはいけないものがいくつもあった。数の子も鰤も海老も、七宝寄せも。しかし、祖父にとってアレルギーなどというものは「気力の問題」であり「鍛えれば治る」ものだった。母はこっそり「おじいちゃまが酔っぱらうまで待ちなさい、そうしたら食べなくてもわからないから」と耳打ちしたが、彼女がお酒と料理を追加するために他の「嫁」たちと台所へ立ったその間に、「食べないと大人になれない」と言われたわたしは素直にそれらを口に運んだ。食べたらどうなるか、ということまで考えなかったのだ。具体的に理解していればそうはしなかった。

ほどなくわたしは脂汗を流して苦しみ、お医者を呼ぶ羽目になった。普段お世話になっている小児科の先生とは違う人に診察されるのがこわかったことを覚えている。

翌年から、わたしの前には「おせちの体をとりつつも、よく見ると全然関係ないもの」が並ぶようになった。面目のつぶれた祖父は何も言わなかったが、「ユリの身体が弱いことと男に生まれてこなかったことは、嫁に原因があるはずだ」という趣旨のことを酔うと殊更に繰り返していた。

その時は悲しくもくやしくもなかった。よくわからなかったから。
意味をきちんと理解するのは、もう少し後になってからのことだ。 
ただ、わたしのおせちにはいちごがあるから、いいもん、と思っていた。ぼんやりとした「なかまはずれ」の匂いだけは感じ取っていたわたしに、「みんなとおなじ数の子はないけど、みんなにはないいちごがあるもん」という気持ちが小さな誇りだった。

そして月日が経ってその家を出て大人になった今も、わたしのおせちはいちごだ。
2012年、わたしはどうにか元気です。

おにしめまたブロッコリーあまいみなさん

上:ほんとうはかまぼこをしましまに並べるんだった。忘れた
下左:お煮しめはすてきなたべもの。クッキー型で梅にんじんしようと思ってた。忘れた
下中:年末にいただいたハム。ブロッコリーはどこにでも置く。あとそのトマトだけはちょっと奮発した
下右:ここだけ正統派重箱に近いゾーン。くろまめだいすき

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